りーぬと出会って4年経ちました。
2019年5月撮影。
なかなか服を作ったりなんなりはご無沙汰ですが、ご無沙汰でも変わらずいてくれるのが人形の良いところ。
5年目もよろしくね、という気持ち。
人形について論じた本が楽しいと大当たり!って気持ちです。
読了。
人形と人形文化について。元は大学の講義。言葉が伝わってきやすい選び方をしていることや、人形と人間の関係性について詳しいので、好印象。最初の宣言「人間のあるところに人形あり、人形のあるところに人間あり」ってとてもいいね。
メディアという特性もあって、人との関わりが必須だから、人形を所有したときの体験談が多い。
受講者たちの話でリカちゃん人形の四肢を寸断してシルバニアファミリーの餌として捧げていた、リカちゃんをすてて代わりに石にリカと名付けたという子供の残虐性が発揮された話がさらっとある。
人形(愛)というと澁澤龍彦なのですが、澁澤に触れながらも重きを置きすぎていないのが好印象でした。
人形の話するときに毎回出てくるので、食傷気味というのもあるのですが、読者のわがままとしてもう一歩先に進みたい。「人形を愛する者と人形は同一なのであり、人形愛の愛情は自己愛だった」という澁澤について多少触れた章では映画『ラースと、その彼女』が取り上げられています。
内気な青年:ラースがビアンカと名付けたラブドールと暮らし、それでも周囲の人間に受け入れられていく作品なのですが、久しぶりに思い返してみると人形を介して人間になるような話だったなぁ…と思います(映画自体を観たのが随分前)。
ビアンカが受け入れられ、またラースも受け入れられる…最後に訪れるビアンカのことも「役割を終えたから」という形で結論がされています。
そして章の最後、受講者への注意喚起の言葉を引用。
(略)人形との《愛》と呼びえるような関係性について考えるヒントを大衆的な作品や文化事象に求める。だがそこで得た知見によって、エロティックで魔術的な対象としてラブドール等をとらえ接している人たちによき理解者を装い結果的に《暴力》をふるってしまうことがあってはならないのだと。
もちろん展覧会に出向き、現代風俗文化のひとつとして精巧にできた人形たちを消費することに罪はない。だがその一方でそれらが有してきた/いる、いかがわしさや後ろ暗さのようなことをなかったことにすべきではない。読者の皆様にも《愛》とはそれほどにややこしく、それゆえに魅力的なのだということをくれぐれもお伝えしておきたい。
菊地浩平『人形メディア学講義』河出書房新社 2018
ここで出てくる多様性に通じる言葉。人形と暮らす私にもしっかり届いております。
関連
読みたかった本が読める喜び。
読了。
妊娠したラブドールの写真から始まる妊娠や妊婦のアートや文芸での扱われ方など。
マタニティフォトの話があるのですが、お腹に絵を描くものがあるのを初めて知りましたが、心が汚れているので過去に見た非人道的なものを扱う創作物を思い出してえーっと…と戸惑うなど。
そして妊娠するアンドロイドの話があるからか、人形の話が割と出てくる。切り口のせいか人形の話題も新鮮だったり、観たことがないものもあって掘り出し物感。
胎盤人形の章で胎児の球体関節人形が紹介されているのが掘り出し物。
URLがあったので、スクリーンショットを取りました。
木でできている!
こちらで閲覧可能。
そしてそれが日本に伝わって模倣品で作られたとされているのがこちら
↓
二重関節になっているし、こちらも木製。
『〈妊婦〉アート論』の第4章『あるべき』女児用人形とは何か、の内容をより発展させた講義を聞いたときの感想。
この時の私の感想で妊娠と人形だとハンス・ベルメールの話を思い出すと書いたのですが、『〈妊婦〉アート論』にはベルメールは特に取り上げられていませんでした。
もちろんなくてもいいんだけど、友人が(ベルメールの人形を)「(当時のアンチテーゼとして作られて)労働しないし、生殖しない」と説明してくれたのが私の中でいつまでも強く残っているのだな…と思うなど。
連休中にトレヴァー・ブラウンの個展に行って限定販売していた画集を買ったので、久々にりーぬにメディカルフェチな格好をさせました。
人形+包帯もトレヴァー・ブラウンの作品でよく出てきますが、今回の画集はレザーやラバーっぽい感じでした。
トレヴァー・ブラウンの女子みたいな服も作りたいけど、しばらく服を作っていないので、いずれいずれで後回しになっています…。
元々、包帯も型紙の原型を取るために買ってきたものなのですが、手作業がご無沙汰です。
対象読者ではないけど、人形の取り扱われ方は気になるから。
読了。
心理臨床の視点からの人形に関する論文。
人形に関しては「私」ではない「私」という視点と被弄性(著者の造語。人形の他人に弄ばれる性質)から論じています。
箱庭療法の研究に関連しているので、実際の箱庭療法での話なども出てきます。
対象読者ではない人形と暮らす私が読んだらどうだろう?と思いながらも意外と創作人形の話なども違和感はあまりなく取り入れていて好感度高い。
全編に渡ってベルメールの人形が出てくるので、直系にあたる創作の球体関節人形が取り上げられるのは当たり前と云えばそうかな。創作人形の作家の言葉が引用されているのだけど、出典は夜想の特集からでした。
現代の人形として取り上げられるのが映画『イノセンス』、映画『空気人形』、そして初音ミクというセレクトは納得。『イノセンス』は公開時に東京都美術館で関連して人形展が行われたこともあり、創作の球体関節人形の歴史があるとすれば欠かせないものではあるので(実際、この展示に影響を受けた作家は多い様子)。
『空気人形』は人形としての体しかない「私」として取り上げられ、初音ミクは人形としての体はないものの被弄性が高く、臨床の現場でも中高生からよく話題に上るため、人形と同じような「私」ではない「私」としての存在として扱われています。
人形自体の話では思い当たる言葉がいくつも出てくるので一部紹介。
人形専門の古美術商の青山惠一の言葉
「よくできた人形は、その表情を80パーセントぐらいのところで留め、あとの20パーセントを見る側にゆだねている」
この言葉を引用してた上で仁愛大学の教員:西村則昭の言葉にはさらに心あたりが出てくる。
「人形の表情には、その子を入手した人のイマジネーションを受け入れる余地が空けてある。そのイマジネーションによってはじめて、人形の表情は完成される。そうしてその人形は『お迎え』した人だけの子となる。しかし、時代が隔たり。もはや昔の人形には意識を託せなくなったとき、その表情は20パーセントの空虚を永遠に留め続けることになる」
…思わぬところで人形の表情が変わる説に近いものを観たので、なんだか嬉しくなりました。
人形に関してあまり思い入れがない人でも人形の表情が変わるというのは感じ取れるものらしく、友人が「手持ちのラブドールの写真をアップしている人がいるのだけど、最初の頃と表情が違って見える」と話してくれたことがありました。
写真の撮り方が上手くなったとか、光の当て方とか現実的な説は色々付けらるとはおもいますが、うちのりーぬも数年経って「最初はやばそうなコだったのに、今は幸せそうになった」と云われたこともあり、やはり表情は変わるものだな…と思っております。
他にも人形がいることで私が人として安定したこと、人形は自分を映すものというのも間違いではなさそうなことも説明が付きそうなこともあり、自分の考えていたこととそれほど離れていないことも好感度が高いことの一つかと思います。
対象外の読者なりに自己の再確認ができた本でした。
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『人形論』は今回の『人形遊びの心理臨床』より刊行は後です。